2014年9月6日土曜日

村上華岳


 島田康寛(寛は旧字) 『増補版 村上華岳』 京都新聞出版センター 200112月刊

 伊藤コレクション(譲渡された神戸栄町通の印刷所経営者・望月吾一所蔵品を含む)を出版。
 島田は当時京都国立近代美術館研究員。立命館大学を経て、小磯記念美術館館長。

 村上華岳18881939)は大阪市生まれ、本名は武田震一。日本画家、菩薩像で有名。家の事情で7歳から叔母の嫁ぎ先、神戸市花隈の村上家で育つ。15歳から京都市立美術工芸学校、絵画専門学校で学ぶ。16歳の時、村上家の養子に。30歳で小野竹喬、土田麦僊らと国画創作協会結成。39歳の時、神戸に戻り、京都画壇から離れる。養父母の死、喘息の持病もあった。

はやくから華岳作品は、謹厳と妖艶、清新と感覚、禁欲と快楽、霊性と官能といった相反するものを併せ持ち、その融合によって深い陰翳と不思議な魅力を醸し出していた。それはまた、濃厚で華やかな幾分泥臭い大阪、洗練され理知的で冷ややかな京都の文化伝統の調和の上に築かれてきたといえるのだが、神戸移住によって、さらに、神戸的なハイカラな自由さと明るさが加わったのである。神戸の持つ明るく清新な風がさわやかに流れ入って、大阪と京都の文化伝統を養分として培われたものが近代的相貌を呈してきた感がある。(島田)

神戸の華岳作品愛好家たちと交友。1934年(昭和9)から彼らによって鑑賞会や展覧会がひらかれる。所蔵家たちが作品を持ち寄り、華岳も加わり芸術理論を語った。

……華岳の芸術と、その人間に対する崇拝者が晩年の華岳を取り巻くことになる。(島田)

 神戸の経済人がコレクターになり、集まりで華岳の人柄に触れることでさらに愛好家が広がった。美術雑誌『画室』主宰者の画家・山本廣洋は華岳を熱心に紹介した。

……私が華岳さんを尊敬追慕したのは、芸術もさりながらその人格であつた。絵筆を御箸と取り違えて居る画家が多い中に、食ふ為めに描かぬ、生活の為めの芸術でなく、芸術の為めの芸術、否な信仰から生まれた芸術であつたからである。一般普通の職業画家で無かつたからである。(『画室』昭和1612月)

 華岳の絵はこちらを。


(平野)

NR出版会HP連載「版元代表インタビュー」更新

8)七つ森書館 中里英章さん  (9)日本経済評論社 栗原哲也さん
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