2019年5月21日火曜日

落語の種あかし

《朝日歌壇》5.19より。

〈文庫本一冊持って釣りに行く(さくら)(がれい)は粘りが肝要 (福山市)武 暁〉

 文芸評論家・加藤典洋さん死去のニュース。ちょうど読んでいたPR誌に加藤の文章があった。
 加藤は小学5年生の時、家を飛び出て軽トラックにはねられた。切手収集に夢中で、何かそのことで急いで友だちの家に向かったのだろう。下駄が砕けて道路に残った。運転手が抱いて病院に連れて行った。「一人の女性が狂ったように走って」病院に向かった。

〈事故の報に帰宅した警察次長の父は、大事をとって布団に寝かされた私を見て警官の息子がと呟き、苦い顔をした。正直な感想だろうが、横たわる私には、母に愛されて居ることの幸福感と、父に対する齟齬の感覚が残った。〉(加藤典洋「大きな字で書くこと 私のこと その4 事故に遭う」『図書』2019.5月号所収)

 中込重明 『落語の種あかし』 岩波現代文庫 1540円+税



著者(19652004年)は近世・近代文学研究者。本書は落語の元になった話や類似の話を探し出す論文集。2004年、岩波書店より単行本。

〈伝統的に言って、落語が落語として出現することは少なかった。落語の多くがもろもろの先行文芸に材を求めている。つまり、落語ではない作品を、ないしは作品の一部を落語化したものが、現在我々が落語として認識するもののほとんどである。噺本をはじめ狂言・浮世草子・随筆・滑稽本・黄表紙・読本(よみほん)講談・歌舞伎・昔話・外国の物語など。あるいは、昔話や噺本などには落語からの輸入もあろうが、おおむねこれらが落語の材源になっている。(後略)〉

 元の話から無駄をはぶき、肝心なところをふくらます。それだけでは時代小説と変わらない、落語の重要な工程は「噺の普遍化を心がけること」、と中込は言う。
 落語『桃太郎』では昔話を聞かされる子どもが父親に逆に教える。「むかしむかしあるところに~」というのは日本中どこでもゆうずうがきくよう、地名・人名などを明らかにしない。人物を題材にする講談と比べると、「いい加減」である。

『明烏』、堅物の若旦那が父親の策で遊び人に吉原に連れて行かれる。一夜空けると若旦那は花魁に夢中。先行文芸や同型の話はどうなっているのか、講談、大岡政談などを見る。話の終わり方(サゲ)の違いから、落語家たちの試行錯誤創意工夫を読み解く。どうすれば客に受けるかである。
 先行話や類話では、堅物が遊女に溺れ放蕩、勘当、遊女と再会、ハッピーエンド、という人情噺だ。『明烏』では若旦那と花魁の名前は誰でもいい。サゲは、若旦那の価値観が一夜で変わる、変心。「男なら誰しも一様に持つ、女性への好奇心」、これで笑いになる。
 人情噺から艶話まで、中込の落語成立過程考察、文献探索はまさしく「種あかし」。
 さらに明治の西洋翻案モノ。三遊亭円朝『蝦夷錦古郷の家土産』について、円朝が北海道のみやげ話と言ったが、中込は類話を発見していた。一昨年ヴィクトリア朝文学研究者によってその原作が明らかになった。本書解説者・延広真治がその瞬間に立ち会った。
(平野)