2026年4月23日木曜日

詩人茨木のり子の誕生

 4.19 「朝日新聞」朝刊「be on Sunday」欄に〈街の書店、残ってほしいですか?〉アンケート集計。2565人のうち94%が「はい」と回答。じゃあ書店に足を運んで買おう、それで大方解決するのでは? だけど、終活・断捨離のため「自分は貢献できず心苦しい」との意見多数。支援・応援せずに、書店生き残ってほしい、は回答の意味ない。  

「朝日歌壇・俳壇」より。

〈そろってるものは残せと妻が言い押入れに縛る「つげ義春全集」 (大和郡山市)四方護〉

〈つげさんの絵は窓からの景色よと茅葺(かやぶき)宿の女将目を伏す (宝塚市)田中威至〉

〈黄水仙文読む暮(くら)し続けたし (高知市)加田紗智〉

〈冥(くら)い春つげ義春を連れて行く (筑紫野市)二宮正博〉

4.19 電車内や休憩時間に読む本がなくなって、古本均一棚で買った怪談集や随筆集をめくっている。既読の作品もあるが、あきない。

4.22 そうなんや~、日本は落ちぶれたんや~。

 仕事終わって、六甲道飲み会。行く途中の公園で知人に遭遇。写真で知る娘さん(小1)に挨拶できて、ヂヂイ感涙。飲み会では詩人さんから出来立ての新刊いただく。帰り道、調子に乗って躓いてこける。

 

熊谷誠人(くまがい・まこと) 『詩人茨木のり子の誕生 西尾の少女の物語』 風媒社 1800円+税



 2026年は茨木のり子生誕100年にあたり、その記念出版。風媒社は名古屋の出版社。「西尾」は現在の愛知県西尾市。のり子が育った町。

 著者は1962年愛知県岡崎市生まれ、愛知県立高校の国語教師から県史編纂、教頭、校長歴任し、現在は私立高校の校長。「詩人茨木のり子の会」会員。

 のり子は大阪市生まれだが、医師である父の転勤により、6歳時から愛知県幡豆(はず)郡西尾町で育つ。16歳の時、父は同郡吉良町(共に現西尾市)で医院開院。

 本書は、のり子の詩10篇を読み解き、詩に詠まれた彼女の原体験を掘り起こす。ちょうど少女時代。詩人「茨木のり子」のスタートは1950年(昭和25)だが、本書は「宮崎のり子」であった時期(「のり」の漢字は部首くにがまえの中に、公・儿。辞書には見当たらない)に焦点をあてる。西尾や吉良の町、家族のこと、学校のこと、友のこと、教師とのかかわりなど、「一人の少女が成長していく物語」。

1972年(昭和47)発表の「麦藁帽子に」は小学一年生の時の思い出。

〈麦藁帽子に トマトを入れて 抱えて歩けば 暑いよ おでこ たら らら らら らン たら らら らら らン〉

北原白秋作詞の明るい童謡のフレーズからはじまる回想。最後は

〈だんだん愉快になってきて それから日本史年表を繰ってみる 昭和八年――私の小学校一年生 小林多喜二が虐殺されていた!〉

 小さな町で不自由なくのびのび育っていた少女時代だったが、世の中は戦争に向かっていた。

1957年(昭和32)に発表した「わたしが一番きれいだったとき」は、その「一番きれいだった」時代に「まわりの人達が沢山死んだ」「男たちは挙手の礼しか知らなくて きれいな眼差だけを残し皆発っていった」と、戦争の残酷を詠う。

 のり子は1926年(大正15)生まれ。昭和と同じ年齢を歩んできた。

 カバー写真は1938年(昭和13)の誕生記念のもの。

(平野)

2026年4月18日土曜日

本のある場所を訪ねて

4.15 京都府南丹市の小学生行方不明事件、痛ましく辛い結果。かわいそう。

4.16 漫画家・東海林さだおさん死去の報。楽しく、おいしく読ませてくださった。感謝。

 ギャラリー島田DM作業。休廊日だが、スタッフさんは画家さんと打合せ。代表のかわいい令嬢(1歳)に遊んでもらいながら、いつもより早く終了。スタッフ・ヤマさんと持病の話。お菓子、みかん、お茶をいただいて帰る。

BIG ISSUE525、表紙とインタビューは寺尾紗穂(シンガーソングライター、文筆家)。特集〈仕事とケア 働く時間とジェンダー平等〉。



4.17 毎年5月に仕事で来神するイワさんを迎えての飲み会決定。おじさんたちが喜んでいる。ピンポンピンポンLINEが鳴る。

 

南陀楼綾繁 『本のある場所を訪ねて』 教育評論社 2200円+税



 著者はライター・編集者、一箱古本市はじめ多くのブックイベントを企画、実行している。本書は「本のある場所」について考える。

1 独立系書店  始める楽しさと続ける難しさ

2 まちの本屋  日々の積み重ねと変化

3 小規模出版社  小さいからこそ出せる本がある

4 地方出版  ここで暮らしながら本をつくる

5 本のビオトープ  本を残し、次代に伝える

〈ひとつの地域にある新刊書店、古書店、出版社、図書館、そして著者、編集者、読者、ZINEやミニコミの発行者など、本に関わる動きや人をできる限り広く見ていく。そうすることによって、地図を描くように、その地域の「本のある場所」の姿が浮かび上がってくるのではないか。私は、その動きに関わる人たちを、いっそのこと、まとめて「本屋さん」と呼びたい気持ちにも駆られる。そこには、本をめぐるビオトープ(生態系)が息づいている。〉

 出版業界新聞「新文化」に掲載。取材とイベントに全国各地を訪れる。コロナ禍に取材した記事もあり、関係者の苦労を知る。

〈「本のある場所」を訪ねる私は、結局のところ、そこにいる人に会いにいっているのだろう。〉

(平野)

2026年4月14日火曜日

BOOK FAIR CHMPIONSHIP

4.12 「朝日俳壇」より。

〈文庫本三冊選び春の旅 (東京都大田区)黒崎康夫〉

〈夜桜は飛び出す絵本かもしれぬ (香川県まんのう町)佐藤浩章〉

4.13 掃除仕事。ちり取りや雑巾の埃・塵の色が先週までと違う。黄砂舞い積もる。

 蔦屋書店の北田さんからBOOK FAIR CHAMPIONSHIP 2025 オフィシャルマガジン」が届く。北田さんが実行委員長を務める〈BOOK FAIR CHAMPIONSHIP 書店員がフェアの腕を競い合う王座〉のレポート。

 第二回王座決定戦は、昨年の初代チャンピオン久保田さん(MARUZEN&ジュンク堂書店新静岡店)の「MJ新静岡店流 書籍百物語」に、八十二件応募から第一位に選ばれた江藤さん・藤原さん(広島蔦屋書店)「ペア読」が挑む。

 久保田さんは「怖い」を集める百物語を三年越しに展開したフェア。百では怖すぎるので九十九冊、一年に三十三冊ずつ集め、今年が最後の年。

 江藤さん・藤原さん「ペア読」は、親子が二冊同じ本を買って同じ時期に読む、親子の感想・受け取り方の違いからコミュニケーションが生まれ、読書の楽しさがさらに深まる、という企画。従来の書店員の考えではちょっと出てこない発想。

 選考委員、作家の角田光代さん・滝口悠生さん、書店主・久禮亮太さんによる審査の結果、江藤さん・藤原さんが第二回チャンピオンに決定。

 書店の閉店、読書離れ、出版不況のなか、北田実行委員長は出版・書店業界全体を盛り上げたい、と様々なイベントを実行している。神戸市の「本屋講座」や「KOBE BOOK FAIR & MARKET」もその一環。 

〈……書店の数や出版物の売上というモノサシで過去と比較するのではなく、「今が最高」だと言える業界にしていきたいのです。そして、「今が最高」だと思える業界の中心には、本の売り手である書店員・書店主が存在していなければならないとも思っています。〉



(平野)北田さん、本業も多忙なのに、業界イベント忙しすぎで、ちょっと心配。

2026年4月12日日曜日

コクトーの食卓

4.9 中東戦争、停戦実現かと思いきや……。

「朝日新聞」文化欄、〈多和田葉子のベルリン通信 小さな書店の愛ある国批判〉。

https://www.asahi.com/articles/DA3S16440387.html



 ドイツ書店賞の話。ドイツでは年に一度、文化担当国務大臣から書店に賞が贈られる。前年度は百店以上が受賞。選考基準は、文化的なイベントを実施、児童の読書委推進に貢献、小出版社の本を販売、新しい経営モデル考案など。「厳しい生存競争の中で、商業主義に流されない多様な書店文化の伝統を守ろうという意志を感じさせる賞」。今年、大臣が三書店を候補リストから削除。新聞は「左翼系書店が削除された」と報道。大臣は、「ドイツはくたばれ」のスローガンに国の予算は与えられない、と答えたそう。

多和田はベルリンの書店「揺れる地球儀へ」を訪問。文学、哲学、世界情勢、社会運動史などが並ぶ。入口近くに環境保護や難民支援デモのチラシ。多和田の第一印象は、こういう書店が存在しなくなったら、それこそ国は「くたばって」しまうかもしれない、ということ。同店の書店員は、他の二書店と共に大臣・憲法擁護庁を相手に訴訟を起こすつもり、と語る。

ブレーメンの「ゴールデン・ショップ」は店先の日除けには、

〈「ドイツ、くたばってください」(英語の「プリーズ」に当たる「ビッテ」がついているので丁寧なお願い)と書いてある。「ビッテ」が付くと挑発的かもしれない言葉にアイロニーやユーモアが加わるから面白い。どんなふうに国を愛するかは各人の心が決めること。法律が口出しすべき分野ではない。批判的な愛もあっていいと思う。〉

三つ目の書店はゲッティンゲン「赤い街道」。多和田のドイツ語作品を出版するコンクルスプーフ出版(昨年同社が出版賞受賞した際に極右政党がクレームをつけた)に訊ねると、同社創業の1978年以来取り引きする書店。

〈……このように長い時間、連帯して様々な経済的困難を乗り越えて今日まで生き残ってきた小さな書店や出版社がこれから徐々に消滅の危機に晒され始めることのないようにと願うばかりだ。〉

 政府や自治体が書店文化を支援するのは自由(ヂヂイはそんなんいらんと思う)だけれど、権力ある者は批判を受け入れる度量が必要。

 

『コクトーの食卓』 レーモン・オリヴェ著 ジャン・コクトー絵 辻邦生訳 ちくま文庫 1000円+税



 日本語訳は1985年講談社から出版。原書は1964年刊。

〈パリ最古級にして世界最高峰のレストランのシェフが詩人コクトーのために書いた、伝説の55皿の料理レシピ〉(帯より)

 レーモン・オリヴィエ(190990)が料理のレシピ、食材選び、下ごしらえ、調理方法、温度管理、調理器具から盛り付けの食器などを語る。繊細な料理人の感覚と腕前、そこに芸術家コクトー(18891963)との交流、彼の作品や趣味嗜好、友人たちとのエピソードを添える。

〈私は美食家でもなければ、とりたてて健啖家というわけでもない。してみればレーモン・オリヴェは、一体どうした風の吹きまわしで、すでにただでさえ膨れ上りすぎてしまった私の関心事のリストに、新たに料理の一項を書き加えようなどと思いいたったのであろうか。思えば、たしかに私は、およそどんな職業にでも興味を惹かれ、たちまち熱中してしまう癖があるし、技術と、われわれを仕事へと駆りたてる神秘的な衝動とのバランスは、芸術分野のいかんを問わず注目に値する問題だというのが、私の年来の考え方でもある。きっとオリヴィエは、そのあたりの事情をちゃんと心得ているのであろう。〉

デザート「苺のジャン・コクトー風」の由来。作家シドニー=ガブリエル・コレット(18731954)死後、1955年コクトーが彼女の後を引き継ぎベルギーの仏語・仏文学王室アカデミー会員に迎えられた。コレット、コクトー、オリヴィエは近所同士のなかよしだった。アカデミー入会演説でコクトーはコレットを偲び、オリヴィエとの友情を語った。58年、ブリュッセル万博会場のフランスパビリオンからオリヴィエがテレビ放送で料理を披露。設備のトラブルや食材不足やら事故多発のなか、このデザートをつくり、コクトーに捧げた。

(平野)ヂヂイは美食家ちゃうし、料理にも挑戦せえへんけど、コクトーは神戸に来たことあるし、彼のスケッチも載っているし……。

2026年4月9日木曜日

伝説の出版社 博文館

4.6 古本屋さんに教えてもらっていたコーヒーと本のイベント、4日に開催であった。今週末と思い込んでいた。友人に詳細を知らせるのにチラシを見て、ようやく気付く。えらそうに教えてあげて、オオボケ。

4.7 雨が降りそうで降らないけれど、風強い、寒い。帽子飛ばされそうな中、買い物。

4.8 朝刊のお天気欄は日本中晴マーク。きれいな青空、山々の緑のなかにピンクの花の集まりがあちこちに見える。勤務場所周辺各家の桜も満開。ミモザを植えているお宅があって、毎年咲き誇る。眼福。花束にしてご近所に分けておられる。

 

堀啓子 『伝説の出版社 博文館』 筑摩選書 2000円+税



「博文館」は「春陽堂」と並ぶ明治・大正・昭和を代表する出版社。ミステリー読者なら江戸川乱歩や横溝正史が活躍した『新青年』を思い浮かべるだろう。現在出版は日記の「博文館新社」、辞書の「博友社」に受け継がれている。また、東京堂書店、東京堂出版、共同印刷、博報堂の源流にあたる。

 大橋佐平は母の「世の人々に尽くすには書籍に関する仕事が一番良い」の教えに従い、越後長岡で出版や書店、新聞など社会のための事業を起こしたが、いずれも不調。上京して始めたのはやはり出版業。1887年(明治2050歳を超えてから「博文館」を創業。同郷人から書き手・スタッフを見出し登用。社名は初代総理大臣・伊藤博文にちなむ。若くして身分制度を超え、英語を身に着けた伊藤は佐平の出版理念のモデルだった。最初の雑誌は『日本大家論集』。先行の学術専門雑誌や新聞から論文を抜粋し、要約して掲載。原稿料が不要、印刷経費を工夫(少部数印刷製本して配本、売り切れで注文殺到し、現金引換えで卸す)、広告費も安く抑えたから、販売価格は廉価。読者は喜び、大ヒット。だが無断掲載、まだ著作権が整備されていない時代だからできたこと。当然既存出版社は怒り、「悪文館」「泥棒雑誌」と批判した。ジャーナリスト・宮武外骨は「破廉恥雑誌」と激怒した。執筆者にも批判者はいたが、「再録」によって多くの人に読まれることでおおむね歓迎した。結果として著作権の成立が進むことになる。

 その後、速記術を使った講演録、写真による日清戦争報道、宗教雑誌、少年雑誌、女子教育雑誌、法律、時事、警察などなど誌名に「日本之~」とつけた新雑誌を刊行していく。いずれも廉価版。読者の寄稿・投稿を促し、読者同士が交流する。1895年(明治28)、『太陽』、『少年世界』、『文藝倶楽部』創刊。文学の様々な分野が確立する。雑誌がビジネスとして成功。執筆者の収入が安定して、その社会的地位も高まる。

 読者を既存雑誌から新雑誌に引き込む戦略。たとえば、戦争雑誌は冒険読み物『冒険世界』、さらに『新青年』へと引き継がれる。モダンな「探偵小説」雑誌の登場だ。読者の世代継承であり、同時に編集者も次世代につながる。出版は辞書、日記にも広がる。流通業、印刷、製紙と事業が広がる。

 二代目・大橋新太郎はさらに拡大、ビール、生命保険、製紙他多くの企業の重役や理事を兼任した。関係会社は80以上に及び、新太郎は衆議院議員、貴族院議員も務めた。敗戦後の「博文館」解体、公職追放の原因となる。

「博文館」は薄利多売で読者を広げ、活字による娯楽教養を普及させた。儲け第一というわけではない。私財で「大橋図書館」を開設し、図書館学の講座を開催し、後の図書館運営の基礎を作った。また、大学生奨学金支援、雑誌を通じて災害救援寄付を集め、売り上げからも義捐金を送っている。1890年(明治23)、東京堂を設立。小売り書店ながら、地方への取次店として流通システムを作り上げる。

「博文館」発展をとおして、「日本の近代教育がもたらした読むことに貪欲な読者の誕生、それに伴い発展した豊穣な文学世界、および近代出版業の進化について」まとめる。

(平野)時代とはいえ、初期には反則すれすれの技もあった。

2026年4月5日日曜日

アナアキストの悪戯

4.4 雨模様、留守番ヂヂイは掃除洗濯、午後から買い物、夕飯づくり。

BIG ISSUE524号、スペシャル企画〈エリック・カール〉。特集〈世界市民の時代に〉。

425日から726日、東京都現代美術館で「エリック・カール展 はじまりは、はらぺこあおむし」開催。福岡、大阪にも巡回予定。

https://ericcarle2026-27.jp/index.html



伊藤野枝 『アナアキストの悪戯(いたずら)』 マヌケ出版社 1200円+税



 関東大震災の混乱の中、パートナーの大杉栄、甥の橘宗一とともに憲兵隊によって虐殺された伊藤野枝の文集。大杉との生活、警察の尾行やスパイとのつき合い、批判者への反論など。尾行をまいたり、警官をからかったり、ユーモラスで骨太だけれど、悲惨な最期を知るだけに余計に悲しい。

表題作は、野枝が警視庁拘禁中の大杉に面会した時のこと。警部の部屋で大杉と面談中、「忠君愛国主義者」が連れてこられる。名士・金持ち目当ての寄付金詐欺師。大真面目にその主義を語る。大杉は彼に勧誘されたことがある。ここでも彼は無邪気に大杉を誘う。大杉は署名するなら「無政府主義者」と書くと言うが、彼「それは勘弁」と。それなら「警視庁留置場にて」と書くと言うと、納得。ところが、刑事が「それはいけません」と止める。

付録に、同志・村木源次郎と和田久太郎の追悼文が掲載されているが、野枝の欠点を率直に指摘。

(平野)

2026年4月2日木曜日

私の東京地図

4.1 寒い三月去って、四月雨のスタート、まだ寒い。入社・入学の式の人たち、颯爽。

 本を読んでいて、エエ歳してても知らない言葉に出くわす。今さら学力・教養の乏しさを嘆いても仕方ない。家の外だと、栞挟んだり、メモして、あとで辞書を引くようにしている。同じ言葉・漢字を調べることも多々。今日は「一籌を輸する」。まず「籌」が読めないから漢和辞典で「ちゅう」と知って、国語辞典で「一籌 いっちゅう」。ようやく「いっちゅうをしゅする、ゆする」と読むことができる。「籌」は「かずとり」数をかぞえる竹の棒、はかりごとの意味も。「輸する」は、負ける。ということで、やや劣る、ひけをとる。以上『新字源』『広辞苑』より。ヂヂイはだいぶ劣る、大敗。

4.2 月に一度我が家の前が資源回収(紙・ダンボール)の収集場所になっていたが、町内会役員さんから収集日と場所の変更の知らせあり。案内文をご近所に配る。近所とはいえ普段通らない路地を歩く。徘徊者とか不審者に思われないか心配。

 

佐多稲子 『私の東京地図』 ちくま文庫 900円+税



佐多稲子(190498年)、長崎県生まれ、小説家。一家で上京し、向島小梅町の長屋から東京暮らしが始まる。稲子は小学校を辞めて、工場勤め。労働者人生のスタートだ。自分を含め長屋の悲しい切ない住民たちの暮らし、浅草の賑わい、上野の料亭奉公、日本橋丸善の女店員、上司の紹介で見合い結婚して目黒。夫は資産家だが、金があるゆえの人間不信から神経を病み、夫婦心中を企てる。命助かるも、稲子は身ごもっていた。離婚、家族に子を預け、駒込神明町カフェーの女給。作家たちと知り合い、窪川鶴次郎と結婚、プロレタリア文学運動に関わる。監視を逃れて転居を繰り返す。東京各地の風景と縁のあった人たちの思い出を短篇小説にして書き継いだ。

〈東京の街にかける私の愛着は、故里(ふるさと)に故里らしいつながりの絶えてしまった小さな生活者の、ここを頼みとするしかなかった悲しさからきている。(中略)たたみこまれた一枚一枚のその風景は、年代や経験につれて、古めかしい色刷りの絵葉書になってしまったり、光と影のある写真という印象になったりする。その風景には必ずそれぞれに人の姿がそれぞれの姿体で入ってくるのは当然で、東京の空が火焔に染まる度に、すぐその失われた跡を見さだめたかったような私の、東京の町に対する愛着から、私はその人々をも、町の性格の中でとらえておきたいとおもいはじめた。/また同時に、戦争がすんで、人が人の姿をとりもどすことになったとき、私は自分をも見極めなければならぬおもいに突き当った。歩いて来た道とともに次第に形を変えてゆくその移り方に、私は、自分をとらえたいとおもう。〉

 稲子は料亭勤め時代から芥川龍之介を見知っていた。芥川は窪川とも文学仲間。芥川が稲子の心中体験を知っていて、「あなたは、もう、もいちど死にたいとおもいませんか」問うた。その4日後、芥川自殺を新聞で知る。

小林多喜二は稲子の赤ん坊にあやして、冗談言って笑った。数日後、彼は「無情な紫色に滲ませて殺されて帰った」。弔問客も警察に検束された。稲子は葬式に参列できなかったが、多喜二に供えられた花を小さな花束にして刑務所の同志たちに差し入れた。

戦中稲子は従軍して戦時協力者となってしまう。

 街と人、人の思いが震災、戦争で焼かれた。焼け跡に立って記憶を掘り返し、自分を見つめ直す。

(平野)