2014年10月16日木曜日

泉に聴く


 東山魁夷 『泉に聴く』 講談社文芸文庫 1990年(平成24月刊

元本は1972年毎日新聞社刊。

 東山魁夷19081999)、横浜市生まれ、本名新吉。父は船具商・東山商店経営。1911年神戸市兵庫区西出町に転居。入江小学校、神戸二中から東京美術学校。

目次
泉に聴く――序にかえて
青の世界  ひとすじの道  夏のアラベスク
古都礼讃  東と西  素朴について

 荒野を飛ぶ鳥にとって、森の泉が羽を休める場であるように、魁夷は心静かに心の中の泉の音に耳を澄ませる。

 泉はいつも、
「おまえは、人にも、おまえ自信にも誠実であったか」と、問いかけてくる。私は答に窮し、心に痛みを感じ、だまって頭を下げる。
 私にとって絵を描くということは、誠実に生きたいと願うこころの祈りであろう。謙虚であれ。素朴であれ。独善と偏執を棄てよ、と泉はいう。
 自己を無にして、はじめて、真実は見えると、私は泉から教わった。……
 
 年譜では画家として順風満帆であったように見える。美術学校特待生、在学中に帝展入選、優秀証書と奨学資金賞を受けて研究科にすすみ、ドイツ留学。帰国して神戸で個展、賞受賞、美術学校教授の娘と結婚……
 しかし、家族に不幸が次々起こる。長兄の死、父・母・弟の病、父死去。空襲で自宅消失し、本人は37歳で召集され肉弾攻撃訓練。
 戦後、母死去、落選、弟死去。妻と二人だけになる。生活はどん底だった。
 1946年冬、制作のため千葉で間借り。画板を抱えて山を歩くきながら、これまでの年月を回想する。

私は両親の家にいた。それは、やはり土蔵造りの家ではあったが、神戸市の下町の、倉庫の並ぶ海岸近くに在って、この佐貫の町に見るような、重苦しい感じのものではなかった。柱も煤けてはいなかった。ただ、柱時計は、かなり古風なもので、家の人が踏み台に乗って、文字盤の長針を指で廻しながら、ボンボンと音をたてて時間を合わせていた。あの、時計の音と共に懐しいのは、腹に響くような太い汽船の警笛と、小刻みな小蒸汽艇のエンジンの響き。それから、岸壁にひしめき合って揺れている帆柱の、ギイギイと鳴る音である。 

母は繕いもの、入口から土間、台所、井戸、天井は吹き抜け、煮炊きの匂いが2階の子供部屋に……

家の表には、「東山商店」という小さな真鍮の看板が掛けてあって、店の土間には、ペンキの罐、ランプ、轆轤、ロープ、錨などが積み重ねられていた。壁には、汽船や船渠(ドック)の写真、ペンキの色見本、台の上には帆船の模型、隅に大きな金庫(中身は書類だけだったようだ)があった。

魁夷は3人兄第の真ん中、おとなしい素直な子だが「心の中に密室」を持っていた。一人でいることに安息と解放感を感じていた。

……中学生になると、山や海辺に独りで自分を置くことを何よりの安息と感じるようになった。そして、父の反対と母の心配に、幾度かためらいながらも、画家になる道を選んだ――

 山道を登りながら、私はずいぶん古い回想、いわば私の人生の出発点とも云うべき頃のことから、一歩一歩、辿ってくるのだった。時々、途切れたり、横道へそれたりした。息のはずむ急な坂になったり、快い緩やかな道であったりした。暗くて寒々とした斜面をかなり歩くと、明るく陽の射した曲角へ出る時もあった。(略)
 こうして、いま、私は九十九谷を見渡す山の上に立っている。ここへ私は偶然に来たとも云える。それが宿命であったとも考えられる。足もとの冬の草、私の背後にある葉の落ちた樹木、私の前に、果てしなくひろがる山と谷の重なり、この私を包む、天地のすべての存在は、この瞬間、私と同じ運命に在る。静かにお互の存在を肯定し合いつつ無常の中に生きている。蕭条とした風景、寂寞とした自己、しかし、私はようやく充実したものを心に深く感じ得た。

 完成した絵は「残照」。第3回日展で特選。政府買い上げとなった。
(平野)