2021年10月10日日曜日

象牙海岸出版記念会

 『竹中郁詩集 象牙海岸』 第一書房 1932(昭和7)年刊








 兵庫津の旧家所蔵本。今春花森書林にて購入。

 1923(大正12)年、竹中は神戸二中在学中、北原白秋に認められ詩壇にデビューした。

28(昭和3)年3月、竹中はフランス遊学のため神戸出港。カゼで少し遅れて親友・小磯良平合流。パリの文化を楽しみ、芸術家と交流。ヨーロッパ各地を巡り、詩作した。30(昭和5)年2月帰国。

『象牙海岸』はその旅の成果。

32(昭和712月の暮れ、詩誌「四季」の仲間・堀辰雄は神戸で過ごした。主目的は『象牙海岸』出版記念会出席。この訪問を「旅の絵」「鳥料理」に書いている。堀は到着後、元町3丁目の喫茶店「藤屋」から須磨のT君(竹中)に電話した。

〈元町通り。店々が私には見知らない花のように開いていた。長い旅のあとなので、すっかり疲れ切り、すこし熱気さえ帯びていたけれど、それでも私は見せかけだけは元気よくコツコツとステッキを突きながら、人々の跡から一体どんな方角へ行くのかわかりもせずに歩き続けていた。〉「旅の絵」

竹中は神戸あちこちを案内。明石の稲垣足穂宅(当時古着屋を営む)にも連れて行っている。

 竹中も堀も出版記念会について詳しく書いていない。私は、どこで開催されたのか、ずっと気になっていた。神戸駅周辺か、元町か三宮か、それとも竹中宅近くの須磨か。

 

数年前、図書館で若杉慧(けい)の本『須磨・明石・六甲の旅』(秋元書房、1961年)を手に取った。書名は「旅」だが、神戸歴史紀行エッセイ。竹中との交遊も書かれている。図書館所蔵本は若杉が竹中に贈ったもの。署名入り。竹中とは詩の仲間、ペンネーム「庭與吉」。

若杉は戦前神戸小学校教師、本名・惠(さとし)。生徒の中に島尾敏雄、陳舜臣がいた。34(昭和9)年、同校の校歌を作詞する。著名人の感想を求めるに際し、竹中が白秋を紹介した。

若杉は竹中の出版記念会に出席。

〈ささやかな記念の集まりが仲間だけで、元町のあるグリルで催されたのは、その年のクリスマス・イヴであった。〉(正しくは1225日)。

元町やんか、と喜んだが、名称不明。参加者は、堀、福原清、中川郷一郎、山下三郎、小磯良平、それに大学生など、とある。二次会、三次会のこと、出席者たちの印象も記している。特に作品を愛読していた堀に惹かれた。若杉が「若杉慧」名で文壇に出るのはまだ先のこと。

 

 このたびコロナ感染症対策の緊急事態宣言が解除され、図書館で神戸新聞のマイクロフィルムを閲覧できるようになった。駄目元で調べたら、出版記念会当日の記事があった。正直に言う。1回目は見落とし、巻き戻す途中で見つかった。

「神戸新聞」1932年12月25日。


 

1225日午後2時、会場栄町5丁目「アサヒ食堂」、会費50銭。発起人は福原、小磯の他、一柳信二、喜志邦三、亀山勝。

 福原は神戸二中で竹中の先輩。24(大正13)年、竹中と神戸詩人倶楽部を結成、詩誌「羅針」発行。

喜志は神戸女学院教師、亀山は神戸市電気局勤務、共に詩の仲間。

一柳は神戸二中、関西学院で竹中の先輩。音楽家(チェリスト)。「羅針」同人でもある。

中川は画家らしいが、詳細不明。名前の読みも「ごう」か「きょう」かわからない。

山下は山下汽船創業者の次男、同社重役のかたわら文学活動。31(昭和6)年北原武夫と文芸誌「新三田派」創刊。

会場がわかって、それがどうした!? と言われそう。竹中と堀が歩き回った場所、元町の「藤屋」、居留地の薬屋で食料品店で本屋「トムスン」、海岸通のレストラン「ヴェルネ・クラブ」、ホテル「イソヤン」、ドイツ菓子「ユウハイム」の名はわかっているのに、出版記念会場が不明なのは気色悪い。記事発見は大きな喜びなのですよ。でもね、「アサヒ食堂」についてはわからない。28(昭和3)年の『神戸商工名録』(神戸商工会議所)に同じ名があるのだけれど、所在地は居留地34(昭和9)年の『神戸電話番号簿』には掲載なし。調べはここまでで終了か。

(平野)