2014年5月28日水曜日

愛と暴力の戦後とその後




 赤坂真理 『愛と暴力の戦後とその後』 講談社現代新書 840円+税

 2012年『東京プリズン』(河出)で、アメリカ高校生活での体験をもとに天皇の戦争責任を問うた。母親が東京裁判で通訳をしていた。

 本書は、その小説家が「自国の近現代史を知ろうともがいた一つの記録」。敗戦、占領、憲法、安保闘争、学生運動、オウム……。歴史を現在のことと結びつけて発言する。

目次

プロローグ 二つの川
第1章 母と沈黙と私  
第2章 日本語はどこまで私たちのものか  
第3章 消えた空き地とガキ大将  
第4章 安保闘争とは何だったのか  
第5章 一九八〇年の断絶  
第6章 オウムはなぜ語りにくいか  
第7章 この国を覆う閉塞感の正体  
第8章 憲法を考える補助線  
終章 誰が犠牲になったのか
エピローグ まったく新しい物語のために

 赤坂の記憶、物心ついた頃まだ「戦争」の影のようなものは残っていた。「傷痍軍人」はどこに行ったのだろう。戦争を知る家族の経験が自分の中で歴史とつながらない。母親が東京裁判と関わったと知り、彼女と話すが話の筋道がつながらない。「戦争犯罪」「戦争責任」について尋ねると、彼女の思考は停止し、沈黙。
 その理由を考える。
 彼女はBC級戦犯の文書を見た。普通の人が非道な行為を行った。膨大な罪の記憶、恥の記憶、同時に被害の記憶、生き残った者の罪悪感が絡む。

 人々は、被害者でもあり、加害者でもある自らの姿を、一つの象徴として、昭和天皇に見たのではないだろうか。
 ならば、だからこそ、心の中でも、天皇を裁けなかったのではなかろうか。
 自分も、免罪されるほどに罪のない存在だとは思えないから。
 だから、黙った。(略)
「戦争」とか「あの戦争」と言ってみるとき、一般的な日本人の内面に描き出される最大公約数を出してみるとする。
 それは真珠湾に始まり、広島・長崎で終り、東京裁判があって、そのあとは考えない。天皇の名のもとの戦争であり大惨禍であったが、天皇は悪くない! 終わり。
 真珠湾が原爆になって返ってきて、文句は言えない。いささか極論だが、そう言うこともできる。でもいずれにしても天皇は悪くない! 終わり。
 その前の中国との十五年戦争のことも語らなければ、そのあとは、いきなり民主主義に接続されて、人はそれさえ覚えていればいいのだということになった。平和と民主主義はセットであり、とりわけ平和は疑ってはいけないもので、そのためには戦争のことを考えてはいけない。誰が言い出すともなく、皆がそうした。それでこの国では、特別に関心を持って勉強しない限りは、近現代史はわからないようになっていた。(略)
 しかし、ひとつの国や民族が、これほどに歴史なしに生きていけるのだろうか?

 
「自分たちが、自分たち自身と切れている」ことを認識しなければならない。
 赤坂は「研究者ではない」と断わるが、確かな視点と覚悟を持って発言する。
「戦争」「終戦」をテレビが話題にすることが少なくなった分水嶺は2008年北京オリンピックの夏、と断言する。

 それどころではなくなったというところなのだろう。
 世界第二位の経済大国という戦後唯一とも言えるアイデンティティが、揺るがされ始めた、その象徴を、あの夏に日本人は見たのである。

 憲法で戦争を放棄したが、「なぜ」「誰が」そうしたのか、歴史は語っていないと指摘する。それに、日本国民は「戦争」そのものを絶対悪と思ったわけではないとも。なぜなら、朝鮮戦争やベトナム戦争の特需を受けたではないか、と。

 勇気ある発言が続く。

(平野)
 私たちは「憲法」を語っているのか? 「戦争」を語り継いでいるか? 「戦後」は?
 オリンピックを招致するために堂々とウソをついた。“愛”はあるのか?