2014年7月12日土曜日

人の花まづ砕けたり


 宮崎修二朗 『人の花まづ砕けたり 詩士富田砕花翁のおもかげ』 ジュンク堂書店 198510月刊


 富田砕花(18901984)、岩手県盛岡市生まれ、詩人・歌人。1908年与謝野寛・晶子の「新詩社」に加わる。啄木、牧水、白秋らを直接知る存在だった。大正の初め、肺を患い芦屋で療養中にマチ夫人と出会い結婚、以後芦屋住まい。詩作、訳詩のほか、全国の校歌、市町歌、社歌を作詞。ホイットマン訳詩集『草の葉』『歌風土記兵庫県』『兵庫讃歌』など。
 1990年、芦屋市が「富田砕花賞」を創設している。

 宮崎は砕花の門番を自称。克明な伝記を書きたいと思うが、資料が少ない。何よりも砕花の信条が、

「詩こそわが墓標……(晩年のメモ)。

その思いは1915年の第一詩集『末日頌』にも記されている。

「他に向って自己を説明し自分をせしむる愚」

 宮崎は質問をするたびに、
「いつも肝を冷やした。晩年は寛容な無言の微笑だけでお応えになられたが、拒否の表情はきびしかった。」
「砕花」の由来さえ教えてもらうのに数年かかった。由来は薄田泣菫の詩で、本書の書名はその一部。

ものみな絶えよ、空に星
下に野の花、なかに恋
三つの飾りと聞きつるを
人の花まず砕けたり  (薄田泣菫「厳頭沈吟」)

 砕花翁の詩。『末日頌』より「赤衣の漂泊者」。六甲山で作った。

風の日は風の日とて
雨の日は雨の日とて
さらに地の、あらゆる気象の
悪戯に脅かさるるときも
わが赤きを着たる漂泊者は
孤独なる彼れの旅路をゆくことをやめず。
……

 砕花の民主主義思想が表れている詩
(平野)