2016年4月18日月曜日

兵士の詩


 桑島玄二 『兵士の詩 戦中詩人論』 理論社 19733月刊
 


 桑島玄二(19241992)は香川県生まれ、
詩人。製造業で経理担当、自営業の後、76年から大阪芸術大学講師、85年教授。神戸の蜘蛛出版社から詩集を出版し、詩誌「天秤」に寄稿している。『神戸の詩人たち』(神戸新聞出版センター、1984年)に作品が掲載されている。
 足立巻一の解説から。
《桑島玄二は、わたしの古い詩のなかまのひとりであるが、戦後、一貫して戦争中の詩と詩人についての批判ばかりを書きつづけてきた。(中略)
 桑島は、なかまでは「桑島善人」と呼ばれている。いわゆるお人よしで、気が弱くて、人なつこくて、いささかあわて者で、いたずら好きで人をよくからかったりする。でも、悪意は微塵もない。また、そんな「善人」で、有能な経理技術者でもあるにのにもかかわらず、関係した事業でとんでもない負債を背負いこんだり、勤めた会社が倒産したり、病気になったり、おかしいほどつぎつぎに災難や不幸に見舞われる人物でもある。しかもなお奇妙なのは、どんな悲惨の底にいても、すこしも陰鬱の影を持たないことだ。いつものんき坊主のような顔つきをし、へらへらとやたらに明るく、冗談をしきりに飛ばす。が、詩を語るとなると、ドモリがちに戦争詩のことを述べたてるのである。そのときの桑島は語りつくせないもどかしさ、いらだたしさに内心悶えているように見える。そうして、戦争中の詩と詩人とのことばかりを書き継いで、もう二十年をとっくに越えた。》

 桑島の軍隊体験について、
《戦争末期のごく短い時期であったために、青春期のやわらかな心に逆に戦争は鋭く食いこみ、学徒出陣兵の悲哀がしみとおっていたことは、時にもらすことばからも容易に想像することができる。でも、それだけで桑島が戦争詩に固執しつづけたことにはなるまい。》(足立)

 足立は、桑島の戦争詩論の核を同郷で6歳上の詩人・森川義信の戦病死と確信する。森川は一般にはあまり知られていない。戦後、友人たちが彼の作品を紹介した。
 桑島は森川の戦死を戦中に知っていたが、その真相=発狂を知ったのは戦後のこと。
《太平洋戦争という巨大なものに踏みにじられていく青年詩人群。やがては、わが身に……である。しかしわたしには、森川が狂死(、、)果ていようとは、おもいもよらぬことであった。

 森川の詩友・鮎川信夫もスマトラで病に倒れたが、帰還できた。詩を書くことができた。森川を思い、書き、追悼した。
…………
「さようなら、太陽も海も信ずるに足りない」
Mよ、地下に眠るMよ!
君の胸の傷口は今でもまだ痛むか。》(死んだ男)

 桑島は、森川の狂死が詩人としてではなく戦争によるものであること=戦争の惨めさを嘆き、彼らの友情について書く。
……わたしは「反戦詩」のすがたをそこに見ているのに気付かねばならない。》

 桑島玄二については、画家で書物愛好家・林哲夫さんのブログが詳しい。
http://sumus.exblog.jp/14669925

(平野)