2019年9月29日日曜日

大江健三郎とその時代


■ 山本昭宏
『大江健三郎とその時代 「戦後」に選ばれた小説家』 
人文書院 3500円+税



 著者は1984年奈良県生まれ、神戸市外国語大学総合文化コース准教授、メディア文化史、歴史社会学。
 大江健三郎は小説家デビュー以来約60年、その文学と発言を通して戦後日本社会をたどる。大江に対する批評、研究文献にも目を配る。
 大江は60年安保、ヒロシマ、オキナワ、核兵器廃絶、憲法など戦後民主主義の問題を作品に取り上げ、社会的事件、災害にも着目した。メディアでも積極的に発言した。知的障害をもつ長男との生活を題材にし、私小説的な作品も書いた。老年に達し、「最後の小説」に向かって書き続けた。
 山本は「大江が一貫して保ち続けた関心」を2点あげる。「共同体」と「超越性」。

「共同体」。家族、友人、学校、会社、地域、国……、あらゆる人間がこれらについて問題意識を持っている。だが山本は、大江がほとんどあらゆる種類の共同体について書いてきたことを重視する。森の村落共同体、子どもたちの理想郷、若者たちがつくる集団、「性的逸脱者」たちの結社、障害を抱えた息子とその父を中心にした家族、知識人のサロン、四国の村のコミューンや教会など。
 大江は、〈共同体の成立と維持がいかなるメカニズムのもとに行われるのか、そこに個人はいかに関わり、そのように他人を取り込み、排除するのか。負の面は明らかなのに、人はなぜ共同体を求めてやまないのこ。理想の共同体を求める試みがいつも失敗に終わらざるを得ないのはなぜなのか――。〉を追求してきた。

「超越性」。大江作品は、少年期の戦争や天皇、また青年期のカタカナ固有名詞(外車や現代思想)、それらを「あおぎ見る」。それら対象につながろうと向こう側へ「ジャンプ」する。「救済」「祈り」という言葉が使われる。
 大江の小説は評価しても、戦後民主主義擁護・人道主義を「陳腐で優等生的」と多々批判がある。

……しかし、大江にとって「戦後憲法」は一種の超越的価値であり、それを「あおぎ見」て、そこに近づこうとしていると理解すれば、小説と評論の矛盾と見られていたものも、実は同じ態度の表れの差として理解できる。〉
 
「最後の小説」『晩年様式集(イン・レイト・スタイル)』(講談社、2013年)は「3.11」後の日本。主人公=大江は近しい女性たちから異議申し立てをされる。特に娘からは、家族に敬意を払ってこなかったのではないか、と。長男も怒る。娘と長男は主人公のもとを離れて、四国の森に移住。小説の最後、自作の詩「形見の歌」を掲げる。初孫の人生を思い、森の伝承を語り、先に逝った人たちを憶う。人は「自分の木」を持つ。死ぬと魂は「自分の木」のもとに着地する。魂は赤ん坊の胸に入る。

〈私は生き直すことができない。しかし/私らは生き直すことができる。〉

妻は〈ともかく希望がかんじられる〉(原文傍点)と言った。
(平野)
 9.24 灘のワールドエンズ・ガーデン、ゴロウさん「ほんまに」取材に同行。老舗新刊本屋店主、女子の古本屋さん、ブックショップ&ギャラリー店主、ワールドエンズ店主に「本を売る」のテーマで鼎談していただく。さて内容は? 「ほんまに」を待っていただきたい。いつできるか? 最後に野次馬参加の私に書店員の給料について質問あり、現役時代の給料を正直に答えた。微妙な反応。原稿からはカット願いたい。
 9.26 中断していた調べ物を再開。我が坂本村(現在の神戸市中央区楠町、橘通、多聞通)出身の日本画家のこと。これもいつ発表できるか? 午後元町商店街事務局に原稿届けて、散髪、買い物。あちこちに体格のでかい外国人グループが目立つ。神戸でラグビーの試合あり。元町通4丁目のまちづくり会館では古本屋さんたちが棚詰め中。しばらくウインドウ越しに眺める。