2014年2月11日火曜日

84~87年馬券ビル反対とまちづくり


 【海】史(15

 1984年~87年 場外馬券場反対運動と元町まちづくり運動

 ここまで小林良宣作成の書きモノで【海】の出来事(77年~83年)を見てきた。このあとしばらく小林記録がないのだが、島田誠の著書『無愛想な蝙蝠』(風来舎、1993年)に元町商店街大事件があった。島田社長が深く関わることになる。
 
 

 話は19776月に始まる。阪神電鉄が元町駅西口ビルに場外馬券発売所を誘致すると発表。従来から元町通3丁目浜側に発売所があった(現在もある)。新しく地上9階地下1階の馬券ビル建設構想だ。地元の同意を得て、という話だった。商店街内部で「集客力アップ」、「イメージダウン」と賛否が分かれていた。島田は、地元住民・商店街は反対多数でビルは建設できないという説明を受けていた。しかし、阪神は84110日強行着工を開始する。商店街幹部を中心に地域住民がハチマキ姿で反対を訴えた。島田も「動員されて現場に立つまで半信半疑」だった。工事関係者と反対派の怒号が飛び交い、警察も出動。その日は双方の責任者が話し合うことで収まった。これを境に、島田は建設反対運動の先頭に立つことになる。
 

 島田はなぜ「馬券ビル」に反対するのか?
「馬券ビルが元町に、駅に馴染まない」
 競馬そのものを否定しているのではない。中央競馬会は、競馬をスポーツとして楽しめ、家族が一緒に遊べるような施設とともにつくるべき。駅は競馬ファンだけのものではない。普通の買い物客は交通渋滞とガードマンの警備に驚くだろう。
 

 だが、何せ構想発表から既に7年である。「反対運動」はあまりにも遅かった。しかも相手は大企業と中央競馬会=農水省。

 この84年、6丁目の三越が撤退することになっていた。そして、馬券ビル騒動。凋落元町という報道もあった。元町にとって大きな問題だ。「ただ反対」だけでは戦えない。

――つぶさに事情を把握するにつれて、ことの重大性と反対運動の戦略の限界と誤謬を痛感し、友人たちに助力を依頼。戦略の検討に入った。――

 
 陳舜臣、朝比奈隆はじめ文化人、学者、弁護士たちが協力してくれた。

 反対派の基本戦略
(1)   商店街のエゴだけの反対運動ではなく、市民レベルの問題として考える。
(2)   絶対反対を叫ぶだけでなく、相手を説得できる論理をもって、話し合いで決着する。
 阪神電鉄の株主総会に出席し、中央競馬会に陳情もした。
 元町まちづくりの案を専門家に依頼し、一般公募もした。
 しかし、相手との話し合いは進展せず、862月には地元自治会が賛成にまわってしまう。

 反対運動は敗北した。「大企業と行政の熟達した戦略」で既成事実だけが積み上げられ、反対運動は切り崩された。
 8716日 実力阻止から3年目、農水省は場外馬券ビル建設を許可した。

 ――あれだけ反対したけど、べつに元町はつぶれてもいないし、場末の雰囲気にもなっていない。阪神の言っていたことが正しかったじゃないか、と言う人がいるかもしれない。でも、街が劇的に変わる例として三宮の東急ハンズを考えてください。あそこが前に何があったか覚えていますか。ぼくたちは阪神に東急ハンズの誘致を進言もした。昨年(一九九二年)、六甲アイランドにできた小磯記念美術館を考えてください。阪神元町駅ビルが、そのようなものであったならどんなに素晴らしいことだろう。――(東急ハンズの場所にはナイトクラブがあった)

 上の文章は1993年に島田が当時を振り返って書いたもの。94年、神戸新聞が元町商店街120年を迎えての特集「元町エポック」で島田に馬券ビル反対運動についてインタビューしている。
 
 

――阪神にもメンツがあり、僕らは苦戦を強いられたけれど、賛成派も反対派もまちが良くあってほしいという思いが強かった。あのころ、元町の商店主は青筋立てて、まちづくりを論議したもんです。……今は仮想敵国がなくて、あの情熱がさめたようでね。でも、今の元町が良くなったなんて、だれもいえない。もう一度、まちづくりを真剣に考える時が来ていると思いますよ。――(「神戸新聞」1994923日)

 
 元町だけではなく、商店街の衰退はずーっと続いている。
「神戸新聞」今年1月の記事。
【海】閉店のことにも触れられている。
 

 (平野)